夫です。
可愛い子供には幸せな人生を送ってもらいたいと思うのが親心。
ただ、先日、幕末時代の歴史小説を読んでいたとき、今、この現代で「幸せ」を感じるには、ちょっとしたコツがいる時代かな、と思いました。
今日は今の時代における、「幸せを感じるコツ」と「詩」について書きたいと思います。
幸せの感覚が麻痺しやすい現代
歴史小説や大河ドラマを見ていると、当時の「幸せの一場面」が「現代の当たり前」になっていることに改めて気付かされます。
昔は自由に選べなかった職業。今は選べます。
昔はご馳走だった白いご飯。今は毎日食べられます。
昔は人間関係が身分や地域といった限定的なものでした。今では基本的には好きな人と好きな時に交流できます。
その他も、自由にお洒落もできるし、好きな場所に住めます。
・・・挙げればキリがありません。
今は、昔ではありません。
「昔の幸せを今も感じよう」なんて言うつもりはありません。
先人達の絶え間ない努力のおかげで、利便性あるモノや仕組みに囲まれ、幸せを享受しやすくなっています。
幸せを感じる基準値が、昔より高くなっていて当たり前です。
しかし、「幸せの感覚」が麻痺しやすくなっているのも事実だと思うのです。
ネットをひらけば、多くの人の「幸せ」がSNSを中心に目に入ります。
また、モノを調べれば、より新しくより性能の良い製品、サビースが短サイクルどんどん出てきます。
「もっと他に幸せが転がってるんじゃないか?」と思えてきます。
過去最高の利便性を手に入れ、多くのモノで囲まれているのに、「自分に最適な何か」があるんじゃないかと思い、焦りや不安を感じます。
ついつい「もっともっと」と青い鳥を求めてしまいます。人間の欲には底がありません。欲に任せ切ってしまうと望むものを手に入っても満足できず、永遠に満たされない気持ちになってしいます。
このような気持ちは、幸せとはほど遠い状態と言えます。
幸せを自分のコントロール範囲に置く
利便性が高い現代だからこそ、情報が溢れる現代だからこそ、モノが生まれ続ける現代だからこそ、『周りに幸せがある』と思わず、『自分の中の幸せセンサーに敏感になる』ことが大切なんじゃないかと思います。
つまり、自分の幸せを自分のコントロールできる範囲に置くことが幸せを感じるコツだと思うのです。
あくまでも物差しは自分です。他人から見たら「何でそんなことに喜べるの?」と思われるくらいがちょうどいいのかもしれません。
こないだ、5歳の息子がそぼろのおにぎりを食べて「これは気絶系の美味さだ」と満面の笑みで僕に伝えてきました。
「これだ!」と思いました。
たかが、おにぎりです。そんな「たかが、おにぎり」に幸せを感じられ、その思いを言葉で伝えられることが大切だと思うのです。
◎おいしく、ご飯を食べられる幸せ
◎ぬくぬくのベッドで寝ることができる幸せ
◎笑みがこぼれるひとときの幸せ
家庭の中でもこのような日常の当たり前の幸せを、敏感にキャッチして素直に言葉に出せるといいなと思います。
幸せを感じるコツを教えてくれる詩
背筋がビジッと伸びる詩を紹介します。
この詩は、10年前くらい前、友人たちととある居酒屋のトイレで用を足していた時に目の前に貼ってあるのを見つけました。
お酒も手伝ってか、この詩が激刺さりした僕はトイレから帰るや否や、「みんなのおかげで、今も楽しい、ありがとう」と伝えたところ、トイレで人格が変わってしまうほどの何かの事件に巻き込まれたのでは?と本気で心配されました。
過去の人生を反省しました。
おかげさまで
夏がくると、冬がいいという
冬になると、夏がいいという
ふとるとやせたいという、やせるとふとりたいという
忙しいと閑になりたいといい 閑になると忙しい方がいいという
自分に都合のいい人は善い人だとほめ
自分に都合が悪くなると、悪い人だと貶す
借りた傘も雨があがれば邪魔になる
金を持てば 古びた女房が邪魔になる
世帯を持てば 親さえも邪魔になる
衣食住は昔に比べりゃ天国だが
上を見て不平不満に明け暮れ隣を見て愚痴ばかり
どうして自分を見つめないのか 静かに考えてみるがよい
いったい自分とは何なのか 親のおかげ、先生のおかげ、
世間さまのおかげのかたまりが 自分ではないのか
つまらぬ自我妄執を捨てて 得手勝手を慎んだら
世の中はきっと明るくなるだろう
おれが、おれがを捨てて
おかげさまで、おかげさまでと暮らしたい
詩:上所重助